院長紹介|笠間市友部の歯医者なら、あさひ歯科クリニック

Doctor

院長ごあいさつ

あさひ歯科クリニック

Masaru Kataoka

昭和63年3月
水戸一高卒業
平成6年3月
日本大学松戸歯学部卒業
日本大学松戸歯学部補綴第二講座
平成8年
インプラント研修終了
医療法人こひなた歯科勤務
平成12年
あさひ歯科クリニック開院

はじまして。あさひ歯科クリニック院長の片岡です。
こちらのページでは、私がこれまで歩んできた道、そしてあさひ歯科クリニックが目指すこと、患者様への思いを語っています。そして私の「人となり」を知っていただくことによって、あさひ歯科クリニックをもっと身近に感じていただけるとうれしいですね。

生い立ち

幼少期

私は、祖父は歯科医(茨城県歯科医師会会長)、父も歯科医、叔父は整形外科医という家系に生まれました。必然的に、近くに医療現場が近いため、今思えば医療人となる道がなんとなくあったのかもしれません。長男であるために3代目?のような期待は、幼少期からありました。

幼少期、私は脳髄膜炎を患い、生死の狭間をさまよっていました。その結果、死にはしませんでしたが、少し足に障害が残り、特に祖父は心配し(祖父が死んだ後に見つけた日記には、私のことが多く書かれており、もう優はダメだろうと書かれていました)、お祖父ちゃん子だった自分はお風呂も、遊びに行くのも、歯科医を半分引退していた祖父でした。

祖父の手を握り、水戸の街を歩いた記憶は今でも忘れません。病気のせいもあり、幼少期は冴えない、目立たない子どもだったと思います。心配した両親は、せめて身体だけでもと思ったのか、スイミングスクールに通わせました。でも、これが良かったのかもしれません。人と競うこと、身体を動かす楽しみを感じ、明るくなれたと思います。

将来の夢は「歯科医ではなく、外科医」

中学時代は水泳部に所属し、北島康介と同じ平泳ぎで関東大会まで進みましたが、全国大会までは行けませんでした。が、部活では努力すること、その努力を続けることの大切さを学びました。この中学時代は一番本を読み勉強した時期でした。

私立茨中では当時はテスト結果、順位が貼りだされたため、競うことの楽しみを知った私はゲーム感覚で机に向かいました。本は、渡辺淳一を読む、ませた子で(当時は失楽園系ではなく、医療物が多かったです)、医師で作家の渡辺淳一先生みたいになりたく医師を目指し、勉強に励みました。

父が「倒れる」

中学3年の時、突然父がくも膜下出血で倒れました。当時、くも膜下出血のことも知らなく、死亡率が高いことなど知らない私は、祖母から聞いてもピンと来なく、すぐ帰ってくるものだと思いました。亡くなりはしなかったですが、4ヶ月間入院することになり、母は4ヶ月帰ってこなくなりました。

生死の狭間をさまよった父は障害を持ち、歯科医院は傾いていき、収入も下がったと思います。まさにつぶれる寸前だったと思います。

父の窮地を知り、歯科医の従兄弟が友人とともに歯科医院に来てくれて助けてくれました。この時の感謝は忘れられません。

「困った人がいれば、必ず助ける」この時も今も自分の信念として持っています。

水戸一高時代

祖父・父・叔父みんなが水戸一高だったため、一高に合格し、正直「ほっとした」自分がいました。父の病気は完全には回復せずにいましたが、入学できた喜びで、今思うと勉強は中学時代より疎かになってしまいました。

昔から、のめり込む性格なため、高校時代はボクシングにのめり込みました。インターハイ・国体を目指しましたが、結局、高校2年生の時のインターハイ準優勝で補欠が最高でした。2年生の時のリベンジをと、優勝を夢見ていましたが、結局3回戦で負けてしまい、「これで青春が終わったんだ」と号泣しました。

今思うとボクシングの才能は、まるでなかったと思いますが、努力と工夫をすれば、ある程度までは行くことができることを知りました。

同時期に、インターハイ・国体優勝した鬼塚と辰吉は世界チャンピオンになったことは、皆さまも覚えていますよね?

強い人は、まずオーラが違い、自信がみなぎっています。話がそれてしまいましたね。

ボクシングに情熱をかたむけたため、勉強についていけず、父の調子が悪いのも深く考えていなかった自分は、「まあ一浪して大学に入る」と思っていました。

3年生の夏までインターハイを目指しボクシングをしていた私は、3年生の8月から受験勉強を始めることになりました。入学時の目標は国立医学部だったのですが、まったくをもって無理。国立医学部を諦め、私立医学部歯学部を受験しました。これも4ヶ月しか受験対策をしていなかったので、合格するなど思っても見なかったのですが・・・奇跡的に「日本大学松戸歯学部」に合格しました。母からは父の調子が悪いので、医学部は諦めて浪人せずに入学してくれと言われ、医者への道は諦めました。

今思えば、本当にいい高校だったと思います。自由な校風で、すべて生徒任せ。服装も私服なのでファッションにも興味を持ちました。恩田陸が書いた「夜のピクニック」は一高の歩く会をモチーフにしていることは有名ですよね。
今でも歩く会は続いています。伝統と自由、いい塩梅でミックスしていると思います。

日大松戸時代

ここでは、多くの出会いがありました。医学部を諦めた経緯もあり、あまり始めの頃は勉強に身が入りませんでしたが、歯学部では医学部的な全身の授業も有り、次第におもしろくなりました。

日本拳法部

日本拳法と聞いて分かる人は、よほどの格闘技ファンです。日拳に先輩から勧誘され、ボクシングをやっていたため、気軽に考えていましたが、大きな間違いでした。「押忍」から始まる軍隊のような部で、授業が終わってから3時間、練習。休みはほとんどない、家に帰ると何も出来ず寝るという生活でした。ただそれだけ練習しないと試合でケガをするので、今思うと必要だったと思います。

そのおかげで身体だけは人一倍強く、精神的にも強くなったと思います。練習は身体を鍛えることが好きだったため、むしろ楽しくもありました。身体は常に体脂肪9%くらい。腹筋はバキバキ、今では考えられません。

5年生の時は主将も務め、歯学大会は優勝、全日本大会も準優勝、個人では敢闘賞をいただき、充実した大学生活でした。この年は調子もよく、ほとんど試合で負けなかったと思いますが、唯一負けたのが、青山アール矯正の佐本先生でした。

そうこうしているうちに卒業しましたが、卒業しても歯科医にはなれません。国家試験が待っています。ただ、マークシートが昔からとても得意(みなさん、国家試験は実技はなく、マークシートなんですよ!)な私は、楽しみながら国試に合格し、歯科医師となりました。

大学時代はうーんほとんど勉強した記憶がないのですが、まぁ楽しく落第もせず、ストレートで卒業・国家試験も合格できました。父の具合があまり良くなかったので、家にはこれ以上学費を払える余裕は無かったと思います。

勤務医時代

大学院へ入るよりも、「早く腕を磨き、一人前になり開業し、父を楽させたい」と思い大学院へは行かず、週一で補綴学第2講座の研究生となり、残りの5日を池田歯科で、残りの1日をインプラント講習に行っていました。

年末・年始以外は休みなく動き・勉強にあけくれた6年間でした。2年間は池田歯科、4年間はこひなた歯科で、6年間週1で補綴学第2講座で研究生として学んできました。これも日本拳法で鍛えた身体のおかげで、風邪も引かず1日も休まなかったです。

開業

もともと父の調子もよくないため、早く地元に帰る予定でしたが、自信がつくまで6年かかりました。目指す歯科医院は・・・「職人技とデジタルの融合」です。

要は腕だけでは現在の歯科は対応できません。また日々進化し続けるテクニックは勉強を止めた時点で過去のものとなってしまいます。

道具・機械は最新のものを取り入れるように。笠間で世界レベルの治療を目標としております。

「マウスピース型カスタムメイド矯正装置(インビザライン矯正)」「インプラント」「ホワイトニング(ビヨンド2)」「歯周病治療」「義歯」ほぼすべての治療を当院で・・・口腔癌なども早期に発見し、紹介するようにしております。ほとんどの親不知の抜歯は、当院で行うようにしております。

子どもの誕生

42歳の時に、娘が生まれました。可愛くてしかたがありません。この時から小児歯科に対する考えがだいぶ変化しました。

おさえつける治療などはできる限りしない。治療はなるべく早くする。もちろん痛くならないように。その子の個性を見抜き、個性に合った対応を心がける。

十人十色でマニュアルはありません。が・・・できないからと言って感情的におこるのは絶対にしてはいけません。

優しくまた笑顔できてもらえるように・・・なるべく大人になった時に歯列がよくキレイでいられるように、と思いながら治療しています。

父の死

父の跡を継いで、片岡歯科医院を継承する事も考えましたが、自分の力を試したいと考え、別の場所で開業する事としました。父は残念がるどころか、自分の事のように喜んで、クリニックの名前「あさひ歯科クリニック」まで考えてくれました。
同じ歯科医でしたが、歯科の話をした事はほとんどありませんでした。よく父子で治療方針の相違から喧嘩になるなど聞きますが、そんな事は一度もなかったです。

父は75歳の時に仕事を引退し、月に一度、歯のクリーニングをしにあさひ歯科に来院していました。その日も「また来月」くらいの軽い挨拶で、最後の会話とも言えないような別れの言葉になってしまいました。その次の日、心筋梗塞で倒れました。一命は取り留めましたが、意識は無く、横浜から脳外科医である弟の二郎も駆けつけました。「意識がもどる事はあるのか?」と自分が問うと、「家族はみな奇跡を願うが、叶う事はない」と言い、弟の言葉通り、一週間後に息を引き取りました。

父がくも膜下出血で倒れたのは50歳の時で、ちょうど自分も50歳となり、働き盛りで病となった父の無念と落胆を自分なりに考えるようになりました。病気となり、身体は弱かった父ですが、自分と弟を不自由な身体で私立の歯学部と医学部に入学させてもらい、学費など相当な負担だったと思います。父は自分を犠牲にして、自分を一人前にしてくれました。

今になって思うと、不自由な身体で弱音一つ吐かなかった父ほど自分は心が強くありません。人の強さの本質は心の強さ、気持ちの強さだと今となって気が付きました。今でも、父の事を思い出さない日はありません。感謝と、親孝行できていたかを自問しています。